11月21日 歌舞伎座開業記念日
1889年11月21日に開業
1911年に外観が純日本式の宮殿風へ変更
1914年より松竹合名社(現・松竹株式会社)が興行を受け持つ
1921年10月に漏電により焼失
新劇場を建設途中に関東大震災で工事が一時中断
3年の空白を置いて1924年12月に完成
1945年の大空襲により焼失
近代的なデザインを取り入れ1951年に完成
歌舞伎座は建て替えのために2010年に休館
バリアフリー化・耐震性の向上・緑化を始めとする環境対策も施され、伝統と創造が融合した近代的な劇場になる
1911年に外観が純日本式の宮殿風へ変更
1914年より松竹合名社(現・松竹株式会社)が興行を受け持つ
1921年10月に漏電により焼失
新劇場を建設途中に関東大震災で工事が一時中断
3年の空白を置いて1924年12月に完成
1945年の大空襲により焼失
近代的なデザインを取り入れ1951年に完成
歌舞伎座は建て替えのために2010年に休館
バリアフリー化・耐震性の向上・緑化を始めとする環境対策も施され、伝統と創造が融合した近代的な劇場になる
開業から130年、明治・大正・昭和・平成・令和と歴史を刻んでます。
歌舞伎の原点と言われる「出雲阿国」
中村三右衛門という鍛冶屋の娘として生まれたとされる彼女は、当時の資料によると「阿国」ではなく「お国」や「国」しか見当たらないらしい。
「出雲阿国顕彰会」が出版した『出雲大社と阿国さんのまち』という本では、1590年代に出雲大社の修繕などの寄付を募るために日本全国を渡りあるいたとある。
出雲阿国が出雲大社の修復のために諸国を渡り歩いたのは1560年代前後という説も
一説には「出雲阿国」と呼ばれる女性は2人いて、現在の歌舞伎の創設者である人物は2代目だとも
出雲阿国が出雲大社の修復のために諸国を渡り歩いたのは1560年代前後という説も
一説には「出雲阿国」と呼ばれる女性は2人いて、現在の歌舞伎の創設者である人物は2代目だとも
遊女歌舞伎
『時慶卿記』(西洞院時慶(にしのとういん ときよし)という公家の日記)という資料によると、1600年に「クニ」と呼ばれる女性が「ヤヤコ跳」という踊りを行ったとされ、この「クニ」が3年後、「かぶき踊」をはじめたと言われています。
この2つの違いですが、
「ヤヤコ跳」は今でいう女の子たちのダンス。
「かぶき踊」とはセクシーさを売りにした踊りのようなもの?。
その後、
後者の「かぶき踊」はエロ要素を強めながら日本中の遊女屋に広まっていきます。
そのため出雲阿国自身も実は遊女だったのではないか?
という説も根強く残されています。
この遊女屋で行われていた歌舞伎を「遊女歌舞伎」と呼び、
一部には50人以上の遊女が舞台に登場し、客数を集めたとも言われています。
こうした遊女を巡って武士がトラブルを起こす事もあったため、
江戸幕府によってこの遊女歌舞伎は禁止されてしまいました。
そのため出雲阿国自身も実は遊女だったのではないか?
という説も根強く残されています。
この遊女屋で行われていた歌舞伎を「遊女歌舞伎」と呼び、
一部には50人以上の遊女が舞台に登場し、客数を集めたとも言われています。
こうした遊女を巡って武士がトラブルを起こす事もあったため、
江戸幕府によってこの遊女歌舞伎は禁止されてしまいました。
ついでに、若衆歌舞伎も禁止
その後、歌舞伎が盛り上がるのは元禄時代になってからで、
この頃から男性中心の演劇になっていきます。
当時の歌舞伎役者は身分が低い者として差別されていましたが、
彼らは日本各地の行き来を認められており、
また当時の人々で歌舞伎に夢中になる者も少なくありませんでした。
歌舞伎は数少ない娯楽演芸だったのかもしれませんね。
この頃から男性中心の演劇になっていきます。
当時の歌舞伎役者は身分が低い者として差別されていましたが、
彼らは日本各地の行き来を認められており、
また当時の人々で歌舞伎に夢中になる者も少なくありませんでした。
歌舞伎は数少ない娯楽演芸だったのかもしれませんね。
京の町で躍った阿国たちの踊りが大好評だったのは事実で、盛況な様子が絵画にも描かれている。
阿国は美女だった?
1603年4月の「当代記」には
この頃、かぶき躍と云うこと有り。
これは、出雲国神子(いずものくにのみこ)女
名は国、但し好女に非ず 仕出し、京都え上る。
(この頃流行っているかぶき躍。これを踊っているのは出雲の国の巫女(お国という女性だが、いい女ではない)は、京都へ上った。)
名は国、但し好女に非ず 仕出し、京都え上る。
(この頃流行っているかぶき躍。これを踊っているのは出雲の国の巫女(お国という女性だが、いい女ではない)は、京都へ上った。)
とあり、外見的にはそれほど魅力的では無かったんや(+o+)