石清尾(いわせお)八幡宮の社名は、社殿を造った赤塔山が亀ノ尾山(亀命山)の山裾にあたり、石清水と亀ノ尾をひとつに併せて、「石清尾」となったと言われております。亀ノ尾山の摺鉢谷から岩清水が渓流となり、その裾の処の八幡様ということこの名が付いたのでしょう。 この辺りには、亀命山、亀阜など亀とつく地名が多く見られますが、当時、八幡様の山の際までが海で亀がたくさん這い上がって来ていたからだと言われております。
石清尾八幡宮公式サイトより。
石清尾八幡宮公式サイトより。
社伝によると、延喜一八年(918)八幡大神が亀命山山上に現れ、時の国司が山上に祠を建てて祭ったと言われる。また、石清水八幡宮の分霊を祭ったともいう。別に社の由緒に関しては、当社の縁起は年歴久遠にしてその濫觴定かならずとも云う。
貞治年間(1362~1368)細川右馬頭頼之が戦勝を祈願して霊験をこうむり、社殿を拡築し武具を奉納し、毎年四月三日に祭礼を行った。これを右馬頭市という。
天正一六年(1588)生駒親正が讃岐に封じられると、高松城を築き、当社を城の鎮守と定め、社殿を改築し、高松の産土神とした。
松平頼重も当社を崇敬し寛永二一年(1644)には社殿を造営して現在地にうつし、社領二○二石余りを寄進、石灯籠、三十六歌仙の扁額等を奉納した。その後、宝永二年(1705)三代藩主頼豊が改修、以来歴代藩主は毎年社参を通例とした。
爾来改修をくり返し、すぐる大戦にも一部被害を受けたのみであったが、昭和六十一年十月、不測の火災により本殿、上拝殿は炎上、烏有に帰した。
平成元年九月、遠方近郊の崇敬者及び氏子、市内有力企業の奉賛を得て、本殿、上拝殿其の他社殿を改築整備し、神門、下拝殿を修復して、焼失前より更に規模を広げ、平成の復興は終了した。
境内由緒書より。
貞治年間(1362~1368)細川右馬頭頼之が戦勝を祈願して霊験をこうむり、社殿を拡築し武具を奉納し、毎年四月三日に祭礼を行った。これを右馬頭市という。
天正一六年(1588)生駒親正が讃岐に封じられると、高松城を築き、当社を城の鎮守と定め、社殿を改築し、高松の産土神とした。
松平頼重も当社を崇敬し寛永二一年(1644)には社殿を造営して現在地にうつし、社領二○二石余りを寄進、石灯籠、三十六歌仙の扁額等を奉納した。その後、宝永二年(1705)三代藩主頼豊が改修、以来歴代藩主は毎年社参を通例とした。
爾来改修をくり返し、すぐる大戦にも一部被害を受けたのみであったが、昭和六十一年十月、不測の火災により本殿、上拝殿は炎上、烏有に帰した。
平成元年九月、遠方近郊の崇敬者及び氏子、市内有力企業の奉賛を得て、本殿、上拝殿其の他社殿を改築整備し、神門、下拝殿を修復して、焼失前より更に規模を広げ、平成の復興は終了した。
境内由緒書より。
なぜかニヤンコと縁があるオラッチ
きょうも出会いました
きょうも出会いました
ここへは上がることが出来なかった
高良神社
御先神社
御先神社の鳥居
広瀬龍田五社神社
北口霊神社
神明社・若宮社への参道
神明神社後ろの祠
絵馬堂
灯籠の月の形が異なるのがとっても気になるが明確な答えがない
2/23の神社巡りはまだまだ続く