正月元旦ということで初詣
宇夫階神社は境内に車が溢れてると予想し、そこそこ手前で車を置いて歩きました。
階段は「しんどい」という奥さんの言葉で、
神社の裏から本殿へ向かいます。
氏神さんなので、拝殿までそれなりに行列できてます。賽銭箱に硬貨投げ入れる方、多いですね。
拝殿内では御祈祷されてるかたが・・・
本殿裏の巨石磐座にも大祓祝詞奏上したけど
奥さんに「早よ次行こ」と急かされ
向かうのは国指定の重文がある聖通寺
こちらは駐車場が狭いので
下の神事場(じんじば)に車を停めて
階段を上がります
奥さんブツブツ言うてました
最初にご挨拶するのは弁財天、次は不動明王そして沖薬師如来、
最後に釈迦如来(正面が太子像ダヨ)
観音堂が開いてて
木造千手観音立像
ガラス越しですが拝観できました
平日は扉が閉じられてます
帰りは、階段嫌いという奥さんのリクエストで坂道を歩き車にもどり檀家寺へ
初詣と檀家寺の納骨堂にお参りして
戻ってきたら正午過ぎ
今年、初のうどん
箸をつけてから
そやそや写真撮らな
とスマホ取り出してパシャッ
盛り付け崩れてるのはご愛敬
蒲鉾の絵柄がネズミです
宇夫階神社(うぶしなじんじゃ)
祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。
境内社として塩竃神社、金刀比羅宮、石鎚神社など多数の神々が祭られている。
歴史
伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座し、
宇夫志奈大神として祀られている。
景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王(たけかいこおう)が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇し、王は驚いて宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなり王を導いた。
王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着し難を逃れた。これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったとされる。
現在でも「小烏(こがらす)さん」との別称が地域で受け継がれている。
また光仁天皇により、779年(宝亀10年)には社殿再興のことが伝えられている。
さらに平城天皇の806年(大同元年)10月、藤原鎌足四世の孫左京大夫藤麻呂の孫とされる、津の郷の長者、末包和直に宇夫志奈大神の託宣があり、末包は刻当時の国守に上申し、神主となり長く祭祀を行い来った。
翌807年、平城天皇の治世に、社殿から光明が射すことが度々あり、勅命により現在の位置に遷座し社殿が造営された。
1957年(昭和32年)5月の申酉の日、遷座1150年祭を開催したが、その際大祭を申酉祭と称したのは以上の由緒によっている。
聖通寺
歴史
伝承によれば、天平年間(8世紀半ば)行基によって釈迦院として創立され、
貞観10年(868年)、聖宝(理源大師)が再興して寺号を聖通寺と改めたという。
本尊の石造薬師如来像(沖薬師如来)は、寺伝によれば聖宝が当寺を再興した際、漁師の網にかかって海中から引き揚げられたものとされ、像にはフジツボが付着している。
寺は坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山(標高117.8メートル)の西麓に位置する。聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬であったとされ、
旧石器時代から人が生活していた。
重要文化財(国指定)
木造千手観音立像
宇多津町にある唯一の国の重要文化財。
針葉樹材の一木造り、漆箔仕上げ、高さ185㎝の像。
頭上に11面の頭上面と阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、合掌手を含めて42臂とする通例の千手観音像である。
寺伝では平安初期に空海(弘法大師)の自作とするが、両脚部などに翻波式の衣文がみられることから、平安中期(10世紀頃)の制作と推測されている。
頭上面と脇手は江戸時代の後補。もともとは、宇夫階神社(町内西横丁)の別当東端山蓮花院神宮寺の本尊が、明治維新の廃仏毀釈で神宮寺が廃寺になった際に、移安になったとされる。